はじまり
豊橋のまちなか、小学校の門の向かいに昭和の趣を残した古民家が一軒ぽつりと佇んでいる。屋号を『ばったり堂』という。
ある日のこと、真夜中に突然、豪雨が襲来した。立て続けに雷が鳴り、轟々と音を立てて暴風が吹き荒れる。
(こりゃ、堪らない。雨戸を閉めないと)
二階の雨戸を閉めようと布団から起き上がり電灯の紐を引っ張ったが、明かりがつかない。
(雷で電気系統がやられたのかな)
暗闇に雷光が射すなか、廊下を進み二階へと続く階段を見上げると、上階の突き当たりにある部屋の襖が半分空いていて、襖の奥がぼぉっとほのかに光っている。目を凝らすと、女性の白くて細い手がこちらを手招きしている。
(そうか、先に気付いて雨戸を閉めてくれた家族の誰かが…)
細い手は、襖の奥にすっと消えた。手招きに誘われるまま二階に上がる。
「ありがとう。夜中なの、に…」
襖をあけた途端、言葉を失った。
長老の顔が浮かぶ火の玉、片手を失った天狗、蛇の老婆、ケケケと笑う河童、長い首をくねらせた轆轤首、機ごを背負った女幽霊、片目を腫らした僧侶の狐、鐘を曳く夜叉のような女、片身しかない巨大な鱸、お姫さまの姿をした蝶、般若の顔をした化け猫、恨めしそうな比丘尼、首だけの落ち武者、石の大亀と草履、大蜘蛛、累々。それらが一斉に会話をやめてこちらを振り返る。その数、五十か百か。絵巻のなかでしか見たことのないような異形の者たちが、輪になってじっとこちらを見つめている。
「よう来たのん。まぁ、座りん」
長老の顔が浮かぶ火の玉が話しかけてきた。
「わしらは豊橋に昔から棲んどる妖怪じゃ。わしはごひん。ちょっとお主に頼みがあってのん」
「あ、あ、あぁっ…」
歯の奥がカタカタと鳴ってしまって、言葉にならない。
「ちょっとぉ、本当にこの人間に頼んで大丈夫?」
「まぁまぁ、わしに任せ。聞け、人間よ。近年、わしら豊橋妖怪の存在が地域の人間たちから忘れ去られて久しい。昔のようにわしらのことを地域の人間が恐れ敬うことも少なくなった」
「そうそう、最近じゃ、わしら頑張って化けてでても《誰ですか》ってポカンとした顔されたり」
「《豊橋に妖怪なんか居るの?》って、平気で訊き返されたり」
「わたしたち何百年も何千年も前からこの地に棲んでいるのにね」
「存在を知られていないって、やっぱりさびしいのよね」
轆轤首と蛇の老婆が、「ねぇっ」とばかりに長い首を傾げあう。火の玉が続けていう。
「人間とわしらが共存する社会に戻るため、いま一度わしらが表舞台に出るときが来たようにおもう。これからそれぞれが自分の話を披露するので、地域の人間たちにわしら豊橋妖怪の物語として伝えてほしい。よいか?」
後ろから、狐や蝶や河童らがひょいっと顔を出す。
「なるべく怖そうに伝えるんじゃぞ」
「あたしは可愛くね」
「おいらはカッコよくな」
目を細めてその光景を見ていた火の玉が静かに語りだした。
「それでは、わしの話から…」
ここから、物語ははじまる。